2016年02月15日(月) 記事No.2151
元禄年間になると武家社会や寺社などだけではなく民家の中でも畳が敷き詰めるようになったようで、畳の需要は増大し、江戸、大阪などで畳屋、畳刺などと呼ばれる畳職人が増えました。
このころ畳奉行が出現しました。畳職人にも6階級の身分制度が出来上がり、1畳屋、2畳刺、3手間取、4職人、5出居家、6弟子など身分統制的制度が設けられ職能が確立されました。
この頃の浮世絵や漫画で、葛飾北斎や北尾政美は畳職人の様子を描いたものがあります。
畳表では関が原の戦い以後、安芸(あき)・備後(びんご)両国(後の福山藩)49万8000石の大名となった広島城主、福島正則が慶長7年(1602)備後表の上品3100枚(3500枚の説もある)を幕府に献上し、献上表として以後毎年の慣例となりました。
福島氏はい草作付けに関する生産資金の無利子貸与、献上表の改め役設置をし、生産保護や品質管理策を行い、商用表の流通は運上銀(税)徴収の目的から藩外の搬出地を指定して抜け売りの防止を図りました。元和5年(1619)福島氏は改易されましたが、その後水野氏、阿部氏もその政策を継承しました。
その頃、広島山南村長谷川右衛門が中継ぎ表を発明したとされます。(現代ではほぼ使われていない畳表)
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